介護事業の売却を検討する際、「従業員の雇用はどうなるのか」、「リストラが行われるのではないか」と不安を抱く経営者は少なくありません。
買い手側にとっても、買収後の人員整理や労働条件の変更に伴う法的リスクは、M&Aの成否を分ける重大な論点です。
もっとも、介護業界の深刻な人材不足や人員配置基準の存在を踏まえると、一般的な企業買収とは注意すべき点が少し異なります。
この記事では、まずリストラ(整理解雇)の法的要件を整理したうえで、介護業界における実務上の実態と、トラブルを避けるための基礎知識を売り手と買い手両側の視点から解説します。
1. 介護事業のM&Aにおけるリストラの法的ハードル
介護事業のM&Aを検討する際、「買収後にリストラは可能なのか」「整理解雇はどこまで認められるのか」という点は、売り手・買い手双方にとって重要な論点です。
結論から言えば、M&Aを契機とする人員削減には高い法的ハードルがあります。
まずは、リストラ(整理解雇)の基本的な法的枠組みを整理します。
1-1. リストラとは何か ― 整理解雇との関係
「リストラ」は本来、リストラクチャリング(restructuring)の略称であり、事業や組織の再構築全般を指す概念です。
しかし日本の実務では、多くの場合「人員削減」、とりわけ整理解雇を意味する言葉として用いられています。
整理解雇とは、企業の経営上の必要性を理由として行われる解雇のことです。
普通解雇(能力不足など)や懲戒解雇(規律違反など)とは異なり、企業側の経営事情に基づく解雇に該当します。
本記事では、介護事業のM&Aに関連して問題となる「人員削減」について、整理解雇を中心に解説します。
1-2. M&Aでリストラが検討される理由
一般論として、M&Aにおいて人員削減が検討される背景には、次のような事情があります。
- 重複部門の整理:統合により管理部門やバックオフィス機能が重複する場合、人件費削減が議論されます。
- 収益性の改善:採算が悪化している部門の縮小や撤退に伴い、人員調整が検討されることがあります。
- 経営方針の転換:事業ポートフォリオの見直しにより、縮小対象部門の人員再配置や削減が議題となることがあります。
もっとも、これらはあくまで「経営判断上の検討事項」であり、直ちに解雇が可能になるわけではありません。
1-3. 整理解雇の法的要件(解雇が無効とされる基準)
整理解雇の有効性は、労働契約法16条の解雇権濫用法理に基づいて判断されます。
判例上は、主に以下の4要素が考慮されると整理されています。
- 人員削減の必要性:経営上、客観的に人員削減が必要であること。
- 解雇回避努力義務の履行:配置転換、出向、希望退職募集など、解雇を避けるための措置を尽くしていること。
- 人選の合理性:解雇対象者の選定基準が客観的・合理的であり、公平に運用されていること。
- 解雇手続の相当性:労働組合や従業員に対し、十分な説明・協議が行われていること。
これらを総合的に判断し、合理性・相当性が認められない場合、解雇は無効とされる可能性があります。
1-4. 実務上のハードルとリスク
理論上は上記要素を満たせば整理解雇は可能ですが、実務ではその立証は容易ではありません。
一般に、以下の対応を尽くしたかどうかが厳しく問われます。
- 役員報酬の減額
- 新規採用の停止
- 配置転換や出向の検討
- 希望退職制度の導入
- 丁寧な労使協議
さらに、解雇を行う場合には少なくとも30日前の解雇予告、または解雇予告手当の支払いが必要です。
また、退職勧奨はあくまで任意の合意退職であり、心理的圧迫や事実上の強制があれば違法と評価される可能性があります。
特にM&Aを理由とする整理解雇は、「経営上の必要性」の立証が難しく、労働審判や訴訟に発展するリスクが相対的に高い領域といえます。
2. なぜ介護業界のM&Aではリストラが合理的選択になりにくいのか
ここまで見たとおり、整理解雇には高い法的ハードルがあります。
しかし、介護事業のM&Aにおいてリストラが限定的になりやすい理由は、法的制約だけではありません。
人材不足や人員配置基準の存在が、介護業界のM&Aにおいてリストラが合理的選択になりにくい構造的な背景となっています。
2-1. 慢性的な人材不足という構造上の課題
介護業界が抱える大きな課題の一つは、慢性的な人材不足です。
厚生労働省が示しているデータでは、2026年度時点で介護職員が約25万人不足し、さらに2040年度では不足人数が約57万人まで拡大する見通しです。
(【画像】第1回福祉人材確保専門委員会資料「介護人材確保の現状について」より)
このような環境下では、人員削減によるコスト圧縮よりも人材確保・定着による事業維持のほうが、合理的であるという判断がされやすいといえます。
2-2. 人員配置基準という制度的制約
介護サービスは、法令で定められた人員配置基準を満たさなければ提供できません。 基準を下回った場合は指定の取り消しや減算のリスクがあることからも、従業員は単なるコスト要素ではなく、事業継続の前提条件となります。
2-3. 介護M&Aの主目的は人材獲得であることが多い
介護事業の買収では、有資格職員や現場のオペレーションノウハウといった人的資産の承継が主目的となるケースが少なくありません。
特に管理者やサービス提供責任者などのキーパーソンが離職すれば、事業価値は大きく毀損します。
そのため実務上は、人材の定着をいかに実現するかが、組織統合における中心的な課題となります。
3.介護事業のM&A(買収)ではリストラではなく「労働条件の変更」が多い
では実際に、買収後の現場で何が論点になるのか。それは解雇の可否ではなく、労働契約の調整です。 1章で述べた通り、M&Aの実施のみを理由とする整理解雇は法的要件を満たすことが難しく、無効とされるリスクが高い。加えて人手不足の深刻な介護業界では、従業員の離職は事業停止のリスクに直結します。 買収後に実務上問題となるのは、給与体系の統合や手当制度の整理、就業規則の統一といった「処遇の調整」です。
なお、必要な対応はM&Aのスキームによって異なります。
3-1.スキームによる雇用契約の違い
| 株式譲渡 | 事業譲渡 | |
| 雇用の形態 |
そのまま継続(包括承継) | 個別に結び直し(特定承継) |
| 従業員の同意 | 原則として不要 | 個別の同意が必要 |
| 労働条件 | 以前の条件がそのまま維持される | 新しい会社と再合意する |
会社そのものを売買する株式譲渡の場合は、雇用契約も引き継がれますが、事業譲渡の場合は、従業員の雇用契約を個別に結び直すことになるため、複雑な手続きが必要になります。
3-2.労働条件の「不利益変更」のリスク
特に注意が必要なのが、労働条件の変更です。
買い手側の就業規則や給与体系に合わせる際、以前よりも給与が下がったり、休日が減ったりするような「不利益な変更」を一方的に行うことは、労働契約法により禁止されています。
不利益変更を有効にするには、以下のいずれかが必要です。
- 従業員本人の自由な意思による同意があること
- 変更に「高度の必要性」と「合理性」があること
介護現場では、基本給だけでなく「資格手当」や「夜勤手当」の基準が会社ごとに異なります。
これらを十分な合意形成なく統合しようとすると、不利益変更とみなされる可能性があります。
4.【買い手向け】買収後の処遇変更に伴うリスクとは
買い手側企業が人員整理や契約内容の変更を検討する主な目的は、収益性の改善です。 しかし、売り手側企業で働いてきた従業員に買い手側の方法やルールを一方的に押し付けると、生産性の低下を招くだけでなく、大量離職を引き起こしかねません。
買収後に起こりうるリスクのうち、特に従業員に関わるものを整理します。
4-1.人材流出による事業価値の棄損
介護事業において人材は非常に重要な経営資源です。介護報酬(売上)を維持・拡大するには、法令で定められた有資格者を含む職員数を確保し続ける必要があります。一斉離職が起きれば、代わりの人材を確保するための採用コストがかさみ、人員基準を下回った場合はサービス提供が不可能になるリスクがあります。
4-2.モチベーション低下によるサービス品質の低下
処遇変更によって給与や待遇が下がった従業員は、買い手への不信感を抱きやすくなります。現場のモチベーション低下は介護事故のリスク増大やサービス品質の低下に直結し、結果として利用者やその家族、地域からの信頼を損なうことになります。
4-3.不適切な手続きによる訴訟・賠償のリスク
3-2で述べた不利益変更が従業員の不満を爆発させた場合、過去の未払い残業代を含む労働審判や訴訟に発展することがあります。
特に株式譲渡の場合、売り手企業が抱えていた潜在的な未払い債務もそのまま引き継ぐことになるため、契約前のデューデリジェンスで労務リスクを把握しておくことが重要です。
4-4.【対策】人を活かして収益を改善するために
リスクの高い手段をとる前に、まずは従業員の安心感を醸成し、前向きに働ける環境を整えることが先決です。
- 【丁寧なコミュニケーションとビジョンの共有】: 買収先の従業員に対して、経営層が直接十分な説明を行います。M&Aの目的や今後のビジョンを誠実に伝え、「なぜあなたたちの力が必要なのか」を明確に示すことで不安を取り除きます。
- 【受け入れ体制の整備】: 転籍となった従業員は特に、慣れない環境に強いストレスを感じやすいため、メンタルケアを含めたフォローアップ体制を整えます。
- 【業務効率化によるコスト削減: 人件費削減の前に、介護ソフトや見守りセンサーなどのICTツール導入による業務効率化やシフトの最適化を優先することで、雇用や労働条件を維持できる可能性があります。本人の適性に合わせた配置転換も、組織の活性化に有効な手段です。
なお、買収後の経営統合(PMI)を進めるうえで、現場の実態に詳しい専門家のサポートを受けることは、トラブルを未然に防ぎM&Aの効果を最大化するために有効です。
5.買収後のリストラや労働契約変更リスクを抑えるために
従業員の雇用を守るためには、相手任せにせず、M&Aのプロセスの中で条件を明確に提示していくことが重要です。
5-1.最終契約書に「雇用維持条項」を盛り込む
もっとも確実な方法は、買い手企業と結ぶ最終契約書の中に、従業員の雇用や処遇に関する特約条項を盛り込むことです。
- 雇用維持期間の設定: 「譲渡から最低〇年間は解雇を行わない」といった条項を設けます。
- 処遇の維持: 「一定期間は現在の給与水準や退職金制度を維持する」ことを約束してもらいます。
- 誓約条項・特約の設定:上記の雇用条件が守られることを契約上の義務として明記し、違反した場合の効果も合わせて定めておきます。
これらは、M&A仲介事業者を通じて交渉を行うことで、売却価格とのバランスを取りながら現実的な着地点を見つけることができます。
5-2.買い手企業の社風や統合方針を確認する
条件面だけでなく、買い手企業がどのような理念で経営しているかを確認することも大切です。
- 過去の買収実績: 他の事業所を買収した際、離職者がどれくらい出たか、どのような統合プロセスを踏んだかを確認します。
- PMI(経営統合)の方針: 現場の文化を尊重するタイプか、自社のルールを徹底させるタイプかを見極めることで、譲渡後のミスマッチを防げます。
5-3. 従業員への情報開示のタイミングと伝え方
従業員の不安を最小限に抑えるには、情報を伝えるタイミングの管理が重要です。早すぎると現場が混乱し、遅すぎると不信感を招きます。一般的には、基本合意後から最終契約までの間に、経営層から直接説明を行うのが適切とされています。
また、転籍を単なる環境の変化としてではなく、従業員にとってのメリットとして伝えることも意識してください。
企業規模の拡大が見込まれる場合であれば、経営の安定性向上やキャリアアップの機会の拡大を具体的に示すことで、前向きに受け止めやすくなります。
6.トラブルのないM&Aには専門性のある仲介事業者が不可欠
従業員の処遇調整は、一人ひとりの感情や生活が関わるデリケートな問題です。
企業の都合だけで進めることが難しいからこそ、公平な立場で実務を支援する仲介事業者の存在が重要です。特に介護業界のM&Aにおいては、以下のような専門的な支援が成否を分けます。
6-1.現状の労働条件・給与体系の把握(労務デューデリジェンス)
デューデリジェンスとは、買い手が買収対象企業の価値やリスクを判断するために実施する調査のことです。 介護業界に精通した仲介事業者を選ぶことで、統合設計に必要な現状把握を的確に行うサポートを受けることができます。
具体的には、就業規則や雇用契約書、給与体系、実際の業務分担などを精査し、買収後の処遇統合をスムーズに進めるための基礎情報を整理します。あわせて、未払い残業代の有無や社会保険の加入状況といった法的リスクの確認も行うことで、買収後のトラブルを未然に防ぐことができます。
6-2. 介護業界特有の制度への対応
介護業界のM&Aには、一般的な企業買収にはない専門知識が求められます。
介護業界に精通した仲介事業者を選ぶことで、こうした業界特有の論点に対応した助言を受けることができます。
例えば、「誰がどの資格を持ち、どの施設に配置されているか」を正確に把握しなければ、買収後に人員基準違反を招く恐れがあります。
また、近年は「処遇改善加算」の算定が従業員の処遇に大きな影響を与えており、統合後の給与設計をどのように行うかは従業員の納得感に直結します。加算の仕組みや賃金体系の整備について知見を持つ仲介事業者であれば、統合設計の段階から実務的な提案が期待できます。
6-3. 統合プロセス(PMI)の伴走支援
M&Aは契約を結んで終わりではありません。むしろ、契約後の経営統合(PMI)こそが本番です。介護業界に精通した仲介事業者を選ぶことで、契約後の現場定着まで見据えた継続的なサポートを受けることができます。 具体的には、労働条件の調整交渉における助言、従業員説明会の進め方のサポート、現場の混乱を防ぐためのスケジュール設計など、成約事例に基づいた実務的な伴走支援が期待できます。
7. まとめ
この記事では、介護事業のM&Aにおけるリストラの実態と、雇用を守るためのポイントを解説してきました。
深刻な人手不足が続く介護業界において、強硬なリストラは買い手にとってもデメリットが大きく、実務上の論点は"解雇"よりも"処遇調整"です。意図せぬ離職を防ぐには、スキームに応じた契約手続きへの適切な対応と、従業員への丁寧なコミュニケーションが欠かせません。
売り手は「確実な雇用維持」を、買い手は「スムーズな経営統合」を実現するために、早い段階で専門的なアドバイスを受けることが成功への近道です。こうした対応を自社だけで抱えるには限界があります。
介護業界のネットワークを持つカイポケM&A支援サービスでは、現場の労務事情や行政動向も踏まえたうえで、成約後のフォローまで見据えたサポートをしています。「従業員に負担をかけたくない」「買収後の労務トラブルを避けたい」とお考えの経営者様は、ぜひ一度ご相談ください。
